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1995年──タヤスツヨシとジェニュインのダービー

 以下も梶山さんのブログに書きこんだもの。若い読者が多く、梶山さんのむかしを知らないようなのですこしでしゃばった。短い拙文だがブログの投稿は500字以内なのでオーバーしてしまい何度か書き直している。



司会の上岡龍太郎が嘲笑しつつ言った。

「馬券で喰えるはずがない。喰っているヤツなどいるはずがない」と。

馬券生活者は屈辱に唇を噛んだ。

翌週、馬券生活者は上岡の面前に百万のズクを抛り投げた。

これで一点勝負だと。公開放送だった。場内がどよめく。

馬券で食っている男の意地だった。

上岡がびびる。こんなことをするヤツがいるはずがないと。

そしてまた上岡は確信する。こんな馬券が当たるはずがない、と。

1995年5月28日、第62回日本ダービー。

勝負は馬番連勝馬券。1991年から導入されたそれまでの枠連とは違い馬同士を指定するシビアな馬券だ。タヤスツヨシとジェニュイン。13-14一点勝負!

1着タヤスツヨシ、2着ジェニュイン。馬連590円。

その夜、男は札束の重みより、自分の信念に乾杯した。

間もなく上岡はテレビ業界から身を引いた。

強運の藝人上岡を完膚無きまでに打ち負かしたのは、彼が侮蔑しつつ後に虜となったマラソンと、この馬券生活者だけだろう。

フジテレビで全国放映された映像である。



たしかこの番組は土曜の昼からだったように思う。前回の出演のとき上岡に揶揄された梶山さんは、このダービー前日の出演のとき、百万束を抛り投げたのだ。かっこよかった。

私はこのころ一年の半分近くを海外旅行に費やしていた。それでも絶対に日本にいるように心懸けていたのが皐月賞からダービーの春と秋天、JCの秋になる。競馬を始めてからずっと一番好きなレースだった有馬記念は、トウカイテイオーとライスシャワーが負け、メジロパーマーが逃げきった年(1992年)に、腰が抜けるほどの大敗をし、愛想を尽かし、以後はもう航空券が年末正月値段で倍になる12月20日前にさっさと購入し渡航するようになっていた。これはなにをしても悪い目に出る私にしてはよい決断だった。「有馬記念で倍にして、航空券が安くなる1月中旬以降に出かけよう」としていたなら、毎年有馬記念でスって出かけられなかったはずだ。まあそれをあのメジロパーマーの逃げきる有馬記念で学んだのだが。

大レースのない夏と冬は海外にいた。春先もこのダービーのあとすぐに海外に出てしまったので後日談を知らない。テレビを見ていない。このあと梶山さんがテレビに出て、どんなもんだとなり、上岡がおそれいりました、と頭を下げるような場面はあったのだろうか。梶山さんからも後日譚を聞いていない。どなたか知っていたら教えてください。梶山さんはあまりこの話をしたがらない。大勝負をして勝った会心のレースというよりむしろ、上岡の無礼に腹立ったあまり楽しくない思い出なのだろう。



サンデーサイレンス初年度産駒の年である。いきなり牡馬が二冠、牝馬がオークス(ダンスパートナー)を制した。このときのイメージが強く、「サンデーサイレンス産駒、初のG1馬ジェニュイン」と書いて直されたことがある。クラシックはジェニュインでまちがいないのだが、G1で言うなら前年のフジキセキの朝日杯が最初なのだった。

たった14年前なのだが、ずいぶんとむかしに思える。
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サイレンススズカの天皇賞

 以下青字は梶山徹夫さんのブログに投稿した文章。実話。有島一郎は梶山さんのことです(笑)。



レコードタイムで逃げきるのではないかと思われた断然の本命馬の競走中止にどよめきが止まない。

1998年11月1日第118回天皇賞。

しかしレースは続く。

勝ち馬はいる。結果は出る。

本命馬から流して10万をスった私の前に、「若大将シリーズ」で飯田蝶子に叱られる有島一郎みたいな容姿の細身の男が現れる。

当たり馬券は見せちゃいけない。見せちゃいけないけど見せずにはいられない。そんな感じで男はチラリと馬券を見せびらかす。競走中止した馬と1、2着した馬3頭の馬連ボックスだった。金額は千円。配当はまだ出ていないが間違いなく万馬券だ。3千円が十数万か。オケラになった身には羨ましい金額だった。多分有島一郎も本命馬から万単位の馬連勝負をした。それが本線だった。ぎりぎりになって買い足したこの押さえがその負けを補い、さらにはプラスにしてくれたのだろう。

そんな日もあった。

あれから11年……。




彼の馬券はサイレンススズカとオフサイドトラップ、ステイゴールドの馬連ボックスだった。オフサイドトラップが6番人気、ステイゴールドが4番人気だったから見事な馬券だと思う。

私はサイレンススズカからの流し馬券しか持っていなかった。たしか2万ずつ5点流しだったと思う。1、2着馬2頭とも相手候補には選んでいた。ただあまりのショックに茫然としていて、縦目を買っておけば当たっていたという感想どころではなかった。というかサイレンススズカの勝利を微塵も疑っていなかったので縦目という発想すらなかった。ゴールを見ずに競走中止したサイレンススズカの方を見ていた。

今になってみれば、当てて儲けるより先に、ハズレたくないとまず考えてしまう小心で未練たらしい私にしてはスッキリした馬券だったと逆に誇らしい。いつもなら、事前にそういう5点の予想をしていても、現場に行ったらそれを2万円3点にして、残金を1万円で5千円で、2千円ずつ総流しでと点数を増やしセコいことをやってしまう。まことに馬券とは「自分との戦い」である。やるたびに己の矮小さを呪い赤面する。それをしていたら結果としてこの120倍の馬連を食いちらかした馬券で千円ぐらい取り、10万が12万になった、たいして儲からんけど負けなくてよかったというセコ結果になっていた可能性は高い。しなくてよかった。だってあの毎日王冠のあとだ。エルコンドルパサーとグラスワンダーをこども扱いしたあの毎日王冠だ。今もあの天皇賞の勝ち馬はサイレンススズカだと思っている。

そういえばそのあとの飲み会のときも、みんなとサイレンススズカのことばかり悼んでいて、馬券で負けたことが気にならなかった。

ブエナビスタ降着考4──カワカミプリンセスの非運

(承前)

メジロマックイーンは、降着による運低下はあったろうが、そこからまたG1を勝ち、後世まで讃えられる見事な成績で引退した。天皇賞・秋降着のあとのジャパンカップと有馬記念を見れば、確実に運気の低下はあったと思われる。だが持ちなおしたその後の成績に救いがある。



しかし2頭目のG1降着馬カワカミプリンセスは悲惨だ。6戦全勝G13連勝だったはずなのに12着降着になった。その後の成績は表のよう。未勝利である。もしもあのエリザベス女王杯がおとがめなしだったなら、彼女の人生はまったく違ったものになっていたろう。

あの降着に意見を言うつもりはない。ただ「あの程度なら降着にならなかった例がいくらでもある」とは言える。まことに降着の判断はむずかしい。





ブエナビスタはどうなるのだろう。彼女も女馬だ。運気低下は男馬より女馬に強く作用する気がする。札幌記念で綾をつけ、秋華賞で降着になった。マックイーンのようにこの運気低下をはね返せるのか。それともカワカミプリンセスのような非運の馬となるのか。





「あれがなければ突きぬけていた」と繰りあがり2着のブロードストリート藤田は憤慨していた。降着になったブエナビスタの安藤は「誰かが責めを負わねばならない」と諦めつつも不納得だった。

ブロードストリートとブエナビスタ、2頭の今後はどうなるだろう。「決着をつけるためもう一度闘いたい」と言ったレッドディザイアとの決着はどうなる。私はレッドディザイアに逆転されたとは思っていない。いまもブエナビスタの方が強いと信じている。だが……。



「ブエナビスタの札幌記念」は、今後彼女の運命がどういう道をたどろうと語られ続けるだろう。私は今もごく普通に、早めに渡仏しフランスで一戦すべきだったと思っている。馬場の感触を確かめるためにもそれがいちばんまともだろう。そこで負けて本番に出ずに帰国しても不満はない。なぜ札幌記念だったのか、いまだにわからない。



今はただ、彼女がこれからも見事な成績を収め、札幌記念の綾と秋華賞降着を歯牙にも掛けず名馬路線を走ることを願うのみだ。

スリーロールス菊花賞優勝餘談──カントリー牧場のこと

 あのころ日高中を走りまわった。

中でも静内の牧場はほとんど訪問している。かつての活躍馬に対面したり、その母や兄弟、近親馬に会えるのがうれしくてならなかった。

武牧場の近くにカントリー牧場があった。昭和43年のダービー馬タニノハローモア、45年の皐月賞、ダービー馬タニノムーティエ、48年の天皇賞・秋、49年の有馬記念馬タニノチカラを輩出した名門である。なんといってもスパルタ教育で有名だった。タニノムーティエのダービーまでの戦歴など信じがたいローテーションである。

この中で私が最も馴染んでいるのはタニノチカラだった。昭和48年の有馬記念で、前を行くハイセイコーを意識し、ハイセイコーもまた後ろのタニノチカラを意識し、前を行くストロングエイト、ニットウチドリによる万馬券を演出してしまった馬である。あの有馬記念はまさに「動けない名勝負」とでも呼べるものだった。その分、翌年はとんでもない強さの逃げ切り勝ちをしている。前年もそれをしていたら連覇だったろう。強い馬だった。



当時タニノチカラは急逝していなかった。タニノムーティエはまだ生きていたが、すでに種牡馬としての結果は出ていた。私はカントリー牧場の敷居が高くて訪問できなかった。それは、若いファンには笑われるだろうが「東西の感覚」だった。南関東で活躍した馬の生産牧場が身近であるとするなら、活躍馬がみな関西馬であるカントリー牧場は私には異国だった。京都大阪に出かけたときと同じ尻の据わりの悪い感覚があった。カントリー牧場の馬はみな関西弁を話すような気がした。

ここでまたたとえG2でも近年の勝ち馬がいたら、それをきっかけに突撃したのだが、そのころのカントリー牧場は、かつての栄光が煌めく分、まさに落魄の英雄の住処のようだった。ひっそりと過去の栄光を守っているかのようにすら見えた。



それから18年後、3頭目のダービー馬となるタニノギムレットが誕生し、さらにはその娘ウオッカが64年ぶりの牝馬優勝を成し遂げ4頭目のダービー馬になるなど夢にも思わなかった。「あのとき訪問しておけばよかった」と悔やむ牧場の一番手である。今ごろはきっと「ひっそりと」ではなく、最も活気ある牧場としてぴかぴかに光っているのであろう。

とはいえ「あることすら知らなかった」「どこにあるか知らなかった」ではなく、「行きたいなあ、タニノムーティエを見てみたいなあ」「でもなあ、なんて挨拶しようかなあ」と、それこそ何年ものあいだ何百回も牧場の前の道路を走りつつ、「カントリー牧場」という看板を見ながら考えたことだから、これはこれで充分な思い出だとも思っている。

スリーロールス菊花賞優勝3──武牧場の栄光

  フレッシュボイスの小笠原牧場の跡取りが自裁した。真歌山の厩舎で首を吊った。数年後、静内駅近くに居を構える名門(そういうところに家があることからも古い入植であることがわかる)小笠原牧場は倒産し離散した。二十世紀の話だ。

2003年、武牧場の主、武勇さんが撲殺されるという怪事件が起きる。武豊騎手の親戚ということからも話題になった。現場が自宅ということから様々な推測がなされた。犯人はわからなかった。

私はその後の武牧場を知らない。当主が亡くなったあと存続しているかさえ知らなかった。

22年前、私が訪れたころ、武牧場にはひとり息子がいた。当時高校生だったからいまは不惑目前になる。父や叔父と同じ麻布獣医大への進学はせず進路に迷っていた。というか正確に書いておくと、日高の地元の高校から名のある大学への進学は難しく、エリート教育を志した牧場主はみな息子を中学から札幌に行かせていた。千葉からの入植者は跡取りを千葉で育てた。地元の静内高校、浦河高校のレヴェルでは東京への進学は難しいらしい。自裁した小笠原牧場の跡取りもそうだった。中学から札幌に出て、マンションを借り、祖母が身のまわりの世話をして麻布獣医大合格への道を歩んだのだった。そういう例を多々知っている。地元の高校に進むということはすでに名のある大学への進学を断念していることだった。


武牧場を調べてみた。代表は未亡人の武栄子さんになっている。ひとり息子ももう四十になるから、まともなら代表になっているだろう。ということは当時から都会に出たがっていたから牧場は継がなかったのか。それとも代表は母のままにして、静内の牧場でがんばっているのか。武勇さんの変死事件は解決されたのだろうか。犯人は捕まったのか。インターネットで調べる限り未解決のままである。





今回の菊花賞優勝の最も大きな鍵は「繁殖牝馬スリーローマン」だ。スズカやスリー、サン、ミスズの冠号で有名な馬主・永井さんがなぜかスリーローマンを武牧場に預けていた。そのことによって武牧場は「菊花賞馬の生産牧場」という栄誉を手にした。もちろんスリーローマンは武牧場の生産馬ではない。おそらくダンスインザダークをつける支持も永井オーナーから出たのだろう。

現在の武牧場生産馬の出走状況を調べるとみな地方競馬である。いかに中央のクラシックを勝ったスリーロールスが武牧場生産馬として異色であることか。

かつて武牧場は際立った活躍馬はいないもののコンスタントに中央に馬を送りこんでいた。現況を見ると、生産頭数も活躍状況も当時とは比ぶべくもないようだ。そこに突如登場したクラシックホース。劇的である。そこにはどんなドラマがあったのだろう。ただ残念ながら、主を亡くした武牧場が、高額な名牝を購入し、乾坤一擲の大勝負を挑んだことによる成果、というようなドラマではないようだ。あくまでも主役は永井一族でありスリーローマンになる。それでもあの事件から意気消沈していたであろう武牧場のみなさんにひさびさの朗報であることは間違いない。菊花賞馬生産牧場なのだ。競馬はこんな形で光をくれる。なんともうれしい出来事だった。





現在の武牧場生産馬の近況。スリーロールス以外はみな地方競馬である



いくつかの疑問は近々『Gallop』の「菊花賞馬の故郷」が教えてくれるだろう。月後れになるが『優駿』はより詳しく書いてくれるはずだ。ふだんは読んでないけど今回ばかりは楽しみに待ちたい。


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ここのところ遺品整理の感覚で身のまわりの整理をしている。すると当時の小笠原牧場、武牧場の様子、武勇さんの写真、奥さんの栄子さんの写真等、あれこれ出て来た。あまりマスコミの前に出ないみなさんであるし、さらには22年前のものであるからより貴重と思う。ここに掲載して独自性を出したい気持ちもすこしだけあった。だが許可を得ることなく掲載するのは無礼と判断し自粛する。

小笠原牧場の放牧地であった真歌山はいま、ビッグレッドファーム(ラフィアン)のものになっている。あのころビッグレッドファームの岡田さんは新興勢力だった。放牧地も狭かった。ガソリン代がもったいないとディーゼル車で走っていた時代である。いまやビッグレッドファームと言ったらたいへんなものである。時の流れを感じる。

スリーロールス菊花賞優勝2──武牧場の戦略

 静内の武牧場は大きかった。生産頭数100頭規模の牧場だった。なのに目立った活躍馬はいない。繋養している種馬フィリップオブスペインも9戦1勝という凡庸な成績。人気はない。大レースを勝った産駒はフレッシュボイスが初めてである。これだけ大きな生産をしているのに私のような競馬ファンの知っている活躍馬がいないのも珍しい。八大競走優勝馬が何頭もいる名門はともかく、生産頭数10頭ぐらいの牧場でも1頭ぐらいは私の知っている活躍馬がいた。中央にはいなくても南関東にいる場合もあった。なのに武牧場は大規模でありながら活躍馬がいなかった。





餘談ながら、競馬ライターになる前、南関東でたっぷり競馬をしていた私は、牧場訪問の仕事をするようになってからずいぶんとそのときの経験に助けられた。どんな牧場でも自分のところの活躍馬の口取り写真を額に入れて飾っている。中央には活躍馬がいず南関東の重賞勝ちが自慢のような牧場も多かった。そんな牧場を訪れたとき私はすぐに写真を見て「あ、××ですね。ぼく大好きだったんですよ、このレース当てました。本命の△△が負けて大荒れだったんですよね」と反射的に馬券のことを言ってしまったりした。苦笑というか失笑というか、そういう笑いのあと、このひとはほんとに競馬が好きらしいと認めてもらい近しくなれた。それは商売的なテクニックではなく本音だった。むしろテレビでしか見たことのない関西の八大競走優勝馬より私には目の前で見た大井の重賞勝ち馬の方が印象深かったから、心からそう言えたのである。当時『優駿』誌のそういう仕事をするかたはみな、血統に詳しい評論家や、競馬好きの作家や大学教授という府中中山の貴賓席で競馬を見ているような方々だったから、私のようなのは珍しく気に入ってもらえたのだった。


もちろんそんなちいさな家族的牧場から八大競走優勝馬が出ることはめったになく、それは『優駿』の取材先ではなかった。私がそういうところを訪ねたのは、競馬ファンとしての趣味であり、仕事的にはサイドストーリィの発掘だった。





タマモクロスのオーナーを取材したときに頂いた貴重なテレカ


たとえばタマモクロスの生産者はタマモクロスの活躍時にすでに破産していた。もう日高にいなかった。当時親しかったかたにお話を伺いに行く。タマモクロスの牧場がちいさかっただけに親しい牧場も規模が小さく「唯一の活躍馬が南関東の重賞勝ち」のようなところが多かった。その馬を知っていることから気を許してもらい貴重な話を聞けた。南関東を駆けずりまわっていたことが役だった稀有な例になる。

ただの競馬ファン、馬券ファンだった私は、競馬学的なことをまったく知らずに競馬ライターになってしまった。だからそいういうことを勉強している牧場経営者には「ファミリーナンバーも知らないのか!?」と嘲笑されたこともある。実際そのとき知らなかったのだから反論のしようもない。こういう牧場主はみな血統の勉強をしていて山野浩一さんを神様のように尊敬していた。実際に神様に会って会って失望したというひとも多かった(笑)。

私はそういう勉強をしていなかったから一面では恥を掻いたが、一面では、南関東四場を毎日駆けずりまわっていたから、山野さんの知らないちいさな牧場の生産馬も知っており、吉と出ることも多かった。




そういう私にも武牧場の生産馬には知った馬がいなかった。編集部で調べてもっていった資料では、唯一1982年(昭和57年)に京王杯スプリングハンデを勝ったエビスクラウンがあるだけだった。


ただしそれは私が関西の競馬に疎いからであり、当時の関西の競馬狂にとっては大好きな個性的な条件馬に武牧場生産馬は多数いたと思われる。でなきゃ経営が成りたたない。ともあれ武牧場がそれだけの生産頭数を誇りつつ重賞クラスがいなかったのは事実である。


まことに失礼な表現ながら他にことばも見つからないし、正鵠を射ている面もあると思うので使わせてもらうと、武牧場の経営方針は薄利多売だったのだろう。武さんの商売能力と関西の武一族という強力なコネクションから顧客は豊富だったと思われる。G1を狙うような名血馬や良血の繁殖牝馬を集めてのエリート養成ではなく、馬主になりたいひとに確実に馬を供給する、B級馬を多数生産し販売することを経営戦略にしていた、と解釈している。


私が初めて訪れたのが1987年(昭和62年)。それから22年経って、今年秋、ついに武牧場から菊花賞馬が誕生した。しかしそこに到るまでには武勇さんの変死を始め、多くの変転があった。

スリーロールス菊花賞優勝1──武牧場の思い出

 スリーロールスが菊花賞を勝った。

あの「伝説の新馬戦」で、アンライバルド、リーチザクラウン、ブエナビスタに続く4着だった馬だ。血統的に父ダンスインザダークも菊花賞むきだ。私はサンデー産駒の中でもダンスインザダークとスペシャルウィークが特に好きなのでその点からも注目していた。

こういうドラマは続いている。「伝説の新馬戦」から「第4の馬」が出て来る「こういう形の伝説の続き」は充分にあり得る。スリーロールスを菊花賞の穴馬として注目していた。

とはいえあくまでも2着3着候補。まさか勝つとは思っていなかった。菊花賞を「アンライバルド、ロジユニヴァースに続いてリーチザクラウンの戴冠」と、ナリタタイシン、ウイニングチケット、ビワハヤヒデの年や、テイエムオペラオー、アドマイヤベガ、ナリタトップロードの年のように、三強が一冠ずつ分けあうパターンを想定していたので予想はハズレ。1着から5着までぜんぶ選んでいるが軸馬が5着ではしょうがない。

スリーロールスに注目していたと言っても、実況アナが言った「生産は新ひだか町の武牧場です」を聞いて驚いたぐらいだからたいしたことはない。まったく知らなかった。あの武牧場が菊花賞馬を送り出した。感無量である。以下、武牧場の話。



静内の武牧場に行ったのは昭和62年だった。安田記念を勝ったフレッシュボイスの「故郷訪問」である。生産者は小笠原牧場。フレッシュボイスの父フィリップオブスペインを繋養していたのが武牧場。牧場主の武勇さんの奥さんは小笠原牧場から嫁いでいた。フレッシュボイスの優勝でフィリップオブスペインの種付け料は上がるし、縁戚の武牧場にとってもうれしいことになる。小笠原牧場での取材には武勇さんも奥さんの栄子さんも来てくれた。ご挨拶し、翌日にはフィリップオブスペインを見に武牧場まで出かけた。

武勇さんはスリーロールスの武宏平調教師の弟。ともに麻布獣医大出身。従兄に武邦彦調教師。武豊騎手は従兄の子になる。ちなみに武豊騎手はこの年がデビュウ。春先のデビュウから順調に勝ち星を重ね、加賀武見の新人最多勝記録58勝を更新するのではと期待を集めていた。



牧場社会は「隣がライバル」である。横の縁の薄い社会だ。そんなとき役立つのが学閥である。牧場主は跡取りを獣医大に薦めることが多い。卒業生同士ということで縦の繋がりが出来る。個々独立した一匹狼の牧場が出身校で繋がって行く。日高でも、いくつかの獣医大出身者が同窓会を作って親交を深めていた。

武勇さんは麻布獣医大出身者が集う日高の「麻布獣医会」のリーダーだった。武さんを兄貴と慕う麻布獣医大出身の若い牧場主が集っていた。千代田牧場の跡取りの飯田さん、小笠原牧場の跡取りも麻布だった。

武さんは騎手をしていたのではと思うぐらい小柄で細身のひとだった。気さくな侠気のあるかたであり、滞在中私は何度も牧場を訪問して馬の病気や治療について教えてもらった。





古い人間なので若い頃覚えたまま麻布獣医大と書いてしまった。調べてみるともう1980年に「麻布大学」と改名している。正しくは「麻布大学獣医学科出身」になる。古いままでいかせていただく。「新ひだか町」も「静内」で行く。あたらしくしたらわからなくなるので。

ブエナビスタ降着考3──運の下降線・メジロマックイーンの場合

G1の降着馬というとメジロマックイーン、カワカミプリンセス、そして今回のブエナビスタになる。降着を受けた馬の運気について考えてみる。

メジロマックイーンの降着理由は現場にいてもわからなかった。当時の府中の芝2000はゲートが開いて100メートルでコーナーになる。そこに殺到するときの出来事で競馬ファンからは見えにくい。素人ファンにわかるのは4コーナーから直線というわかりやすい位置の場合だ。まして5馬身差の圧勝だったし、しかも馬群をこじ開けて勝つような形ではなく先行逃げ切りだったので正直マックイーンの降着(というかあれはもう失格だろう)は意外だった。
しかしパトロールフィルムを見れば急激な内への切れこみにより何人もの騎手が馬にしがみつき落馬寸前になっている。あの降着は当然だ。「東京2000外枠不利」を意識しすぎた武豊騎手のラフプレーであり、あれをしなくても勝っていたろうと思うと馬が気の毒になる。なんであんなに焦ったのか今もってわからない。

G1史上初というとんでもない綾を附けたメジロマックイーンのその後はどうなったか。
ジャパンカップで1番人気に支持されながらゴールデンフェザントの4着に敗れる。いつでもどこでも大敗しない堅実なマックイーンだがこれは大舞台においては馬券に絡まなかった唯一の完敗になる。「切れ味勝負になると弱い=スタミナは無尽蔵だが切れ味はない」との弱点が露呈した。敗れた相手が同じ芦毛の切れ味鋭いゴールデンフェザントであることもそれを印象付けた。(あのころのマックイーンはまだ白くなかったけれど。)

G1における敗戦ではこの年の宝塚記念2着がある。これは無冠の僚馬メジロライアンに勝ちを譲ったという説があり、真実はともかく私もそういう印象は持った。自身の勝負運に綾を附けたというならむしろこの時が問題か。僚馬に勝ちを譲るなどというとんでもないことをしたために、天皇賞・秋の降着、ジャパンカップでの敗退、有馬記念での敗退(勝ち馬はダイユウサク。有馬記念史上唯一の単勝万馬券馬)という不運を呼びこんだとも言える。

しかしその後、1番人気に支持された無敗のトウカイテイオーを破って天皇賞・春連覇を成し遂げ、翌年春天三連覇こそライスシャワーに阻まれたものの、宝塚記念を勝ち、引退レースとなる京都大賞典ではレガシーワールドを破って有終の美を飾っている。レガシーワールドが次走のジャパンカップを勝ったからますます名声を高めた。
ジャパンカップと有馬記念の敗戦を見ると降着の呪いのようにも見える。一方その後の活躍を見ると降着の運気低下はなかったようにも思える。私の解釈では、運気低下は確実にあったのに、それでもあれだけの成績を残したのだからとんでもない怪物馬だった、になる。

綾を降着の天皇賞ではなく勝ちを譲った宝塚記念に求めるなら、あれをしなかったら天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念をみんな勝っていたのではないかとすら思えてくる。ともあれ天皇賞・秋を降着になったメジロマックイーンは、1番人気に支持されたジャパンカップと有馬記念を連敗するという「運気低下」の成績を残している。

思い出写真──ギャロップダイナ




撮影。1988年夏、社台ファーム。



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私は種牡馬ノーザンテースト、社台ファームという日本一が嫌いだった。

勝ちまくるシャダイ、ダイナの馬が嫌いだった。

出走馬を見かけると片っ端から消した。

その全盛時代だったから馬券ではひどい目に遭った。



まだダートの条件馬だったギャロップダイナにパドックで会い、ひと目ぼれした。

ころころしたかわいい馬だった。

まさか後にあのルドルフを負かして天皇賞を勝つとは夢にも思わない。

それからノーザンテーストの仔もダイナの馬も好きになった。

馬券で勝つためにはこういう好き嫌いを作ってはならない。

誓った。もう好き嫌いはしない。勝つための、厳守すべき法則。



その後そういう好き嫌いはなくなった。しないようにした。

サンデーサイレンスもその後継馬も大好きだ。

社台ファーム、ノーザンファームも嫌っていない。日本一はすばらしい。

すばらしさを素直に認める心が勝ちに繋がる。



しかし相変わらず馬券成績はひどい。

馬や牧場の好き嫌い以前の問題だとやっと気づいた。

ノーザンテーストや社台ファームを嫌っているから馬券が当たらないのだと思っていたときはまだ救いがあった。

真実を知ることはいつもかなしい。

田原成貴考2──清水成駿氏の迅速な対応

もしかして清水さんは田原と最も親しい関係だからこそ、当面事態が落ちつくまで一切発言をしないのではないかと思っていた。そうではなかった。早速今日厳しくも適確なコメントを出した。すばらしいと思う。以下引用。

<SUPER SELECTION メールマガジン「清水成駿の競馬春秋(09/10/22)」

【「まさか」と「またか」の田原成貴】


 田原成貴が大麻取締法で身柄確保の一報が届いたのは先週の木曜日。「競馬最強の法則」で当方との対談をコーディネートした編集長の岩神氏からである。

 つい先日、「ジャパンカップ号」の対談DVDを撮り終えた矢先の逮捕劇。一報に「まさか」と「またか」が頭の中で交錯した。本日の報道では大麻だけではなく覚せい剤容疑も加わっている。2度目はダメだ。無念を通り越して「馬鹿野郎」としか言いようがない。もちろん、当方以上にショックを受けているのは、これまで成貴を親身になって裏で支え続けた岩神氏。誌面の差し替えに始まって、新聞広告やDVDのストップ。ガックリ肩を落とした中での後始末くらい情けなく、疲労困憊することはない。

 成貴には個人的にみてロックバンドを除けば、あり余る才能がある。最近、バンドを組んだというのが少し引っ掛かっていた。もちろん、釘はさした。

 ハイ・テンションでエキセントリックな性格は、常に放っておけない危なっかしさと「人なつっこさ」とを内包している。「馬鹿野郎」と言ったものの人柄は今も憎めない。実際、賢い奴だから、それを自分自身が一番よくわかっている。根はそこかも知れない。だから人にも薬にも家族にも甘える。

 決して弱い人間ではない。弱いといったら、そもそも人間はみな弱い。そんなことで2度目の逮捕は片づけられない。電話で奥方は、「2度目だから別れます」と気丈に言い切ったそうだ。暗に「あなた方が主人を甘やかすから…」とは聞こえまいか。チクリと胸に痛い。(後略)

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私は今朝、このニュースを知った。その後の報道で、田原が警察に身柄を拘束されたのは14日と知る。8日も前だ。先週の水曜日。近しい関係の清水さんはその翌日、15日の木曜日に知っていた。とすれば清水さんには充分に考える時間があった。今日の発言は準備し用意していた当然のものと言える。「迅速な対応」は今日知った私の感覚であり、清水さんはこの一週間、「田原のバカヤロー」と腹立っていたことになる。感激するほどのことではないか。



「競馬最強の法則」の岩神編集長の名前が出ている。私が「オグリキャップ写真集」の話を馬主の佐橋さんから打診され、相談に行ったのが岩神さんだった。そのころKKベストセラーズは高本公夫さんの馬券本は出していたが、まだ「最強の法則」は出ていない。いや不定期ムック本でもう出ていたのだったか。どこかの競馬パーティで岩神さんと名刺交換をし、そのムック本を贈ってもらってのつきあいのような気がする。あれからもう20年か。
問題を起こして競馬界を追放された田原を、だからこそと逆手にとって岩神さんは馬券雑誌の売りにした。私はその戦略を「うまいなあ」と感心していた。目立ちたがり屋の田原にとっても忘れられたくはないから、この企劃は持ちつ持たれつだったはずだ。それがこの結末。岩神さん、清水さんは無念だろう。

清水さんは「弱い男ではない」と書いているけど、何度も覚醒剤に走るのは弱い男だよね。

田原成貴考1──二度目の逮捕

田原成貴元騎手を覚せい剤取締法違反で逮捕
京都府警が、覚せい剤取締法と大麻取締法違反容疑で、日本中央競馬会(JRA)の元騎手で元調教師田原成貴容疑者(50)を逮捕していたことが22日、捜査関係者への取材で分かった。 田原容疑者は1978年に騎手デビュー。天皇賞や有馬記念などGIレースを制覇して重賞通算65勝を挙げ、通算1112勝。98年の引退後は調教師に転身したが、2001年10月、覚せい剤取締法違反容疑で逮捕され、同年12月、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。 JRAは田原容疑者の調教師免許をはく奪、競馬への関与を停止する処分を科している。

http://www.sanspo.com/keiba/news/091022/kba0910220813017-n1.htm 2009.10.22 08:09

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ちょうど田原に関する自分の意見をまとめておこうと思っていたときに飛びこんできたニュース。下記の「昭和58年の有馬記念リードホーユー」が彼の初めての八大競走制覇になる。
再犯だ。応援してきた清水成駿や起用してきた「最強の法則」はたまらんだろうなと思う。それほどドラッグから抜けるのは難しいのか。
警察は再犯の可能性があるのを張る。張られるだけ怪しかったってことだ。

私が気になったのは、ここのところ清水さんが「田原の息子は東大生」と発言していたことだ。灘高から東大だとか。ああいうひとだから落ちついた家庭ではなかったろうし、一時は息子とも絶縁状態だったらしい。優秀に育ったのはめでたい。清水さんに誉められて「いやあ反面教師ですよ」と照れていた。
話の脈絡から推測するに、絶縁状態だった親子の仲も息子が大学生になり、ここにきてよくなっていたらしい。他人事ながらよかったなあと思っていた。娘さんもかなり優秀で(失念したが)一流大学の名前が出ていた。

清水さんは田原がもうそういう愚かなことはしないと判断して今まで触れなかった家族の話題を口にしたのだろう。雑誌での対談のみではなく、自分のサイトでもそのことに触れ、「息子が東大→田原がいかに優れていたか」という逆路線からの持ちあげをしていた。こどもの優秀さで親が逆評価されることもある。まさに競馬的手法の田原応援だった。田原は見事にそれを裏切った。清水さんの「田原の息子は東大生」も裏目に出た。息子が気の毒だ。
クスリは、二度目をやったひとは三度目もやる。三度目は四度目もやる。買える小銭がある限り死ぬまで止められない。二度目だから今度は実刑だろう。愛想を尽かすしかない。

定期的に対談したり酒を飲んだりしている清水さんは田原の言動に異常を感じなかったのだろうか。書くか書かないかわからないが、いま清水さんの発言に注目だ。

ブログメモ──オグリの写真



今日から背景写真をオグリキャップの写真にした。目出度くここも【木屑鈔】に続き、写真だけではあるが「この世で唯一のデザイン」になったわけである。

この写真は私のものではない。当時メジロ牧場に住みこみで働いていた竹田さんという女性が撮って送ってくれたものだ。私の撮ったものよりもいい写真なので使わせてもらった。1989年のものである。竹田さんは元気だろうか。いい「おっかさん」になっていることだろう。もしもここを読んでいたらメールをください。

ブエナビスタ降着考2──身近な被害者

ブエナビスタが2着から3着に降着になったが私の周囲には被害者はいなかった。と書いたらIさんから電話。インターネットはやっていないのでブログを読んだわけではない。

Iさんは秋華賞の馬券をあの上位3頭(3連単6点)に絞り、さらに「ブエナビスタが2着を外すことはありえない」とブエナビスタ3着の馬券を消して4点にし、全予算4万円を1万円4点買いで勝負したという。周囲に典型的な被害者がいたことになる。

5-3-12は24倍。24万か0かの判定を待つのは辛かったろう。ブエナビスタがブロードストリートの進路妨害をしたのは確認しており、覚悟はしていたというが……。





Iさんは馬券が巧い。今年もトータルで200万ほど浮いている。なにより根性なしの私なんかと違って買いかたがかっこいい。今年のIさんのヒット馬券に福島最終があった。人気薄馬を2着に固定しての3連単8点買い。1着3着はそこそこの人気馬だったが2着にその人気薄の狙い馬が来た。配当は27万。500円×8点、4千円で135万円の払い戻しである。

が、こういう馬券で讃えられるのはIさんは不本意か。Iさんの自慢はもっと渋い馬券。血統や馬場状態、展開から穴馬を撰び、複勝を5千円1点勝負することが多い。これが5倍10倍、時には20倍の時もあり確実にトータルプラスを計上している。馬券上手には複勝勝負も充分勝負になるのだなと感心する。



秋華賞の日の夕方、誰か馬券で当てたひとが酒を奢ると電話をくれないかなと都合のいいことを考えていた。ふとIさんはどうだったのだろうと思った。固い決着だったがこれはこれでIさん好みの馬券なのである。何度か鳴らないケイタイを見た。そのころIさんは無情の降着にがっくしと項垂れていたことになる。

ブエナビスタ降着考1──被害者例



インターネット掲示板「2ちゃんねる」に自らスレッドを作り、500万円の馬券を購入した証拠写真と共に「絶対に当たるレースで確実に稼ぐ。これがプロの基本だ」という書き込みをした人物が出現した。つまりこの人物は、「2ちゃんねる」の住民たちと一緒に競馬中継をテレビで見て楽しもうという考えのようである。


もしこの馬券が的中すれば、かなりの金額が手に入ることになる。(後略)


http://news.livedoor.com/article/detail/4406344/


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 いろいろ考えさせられる降着だった。2着と3着の入れかわりというのが馬券的にも微妙である。カワカミプリンセスの降着(1→12)とは違う。あの場合は1番人気馬が馬券圏内から消えることで馬券すべてが激変した。


今回は、単勝、複勝、3連複は無関係。3連単も多少変動したが固い決着だった。いちばん被害を受けたのは馬連と馬単になる。中でも一番の被害は「ブエナビスタは何があろうと連は外さない」という読みをしたひとだ。ブエナビスタから行ったひとの多くは、安藤の下手な乗り方で届かなかったが、「とりあえず馬連で取った」「すこしだが裏を抑えておいてよかった」と胸をなでおろしたことだろう。そこにあの結末である。たまらんだろうなと思う。


断然人気馬が枠連、馬連、馬単の対象から消えたのだから被害者は多いだろうが、私の周囲は馬単でも3連単でも的中馬券を持っていて、「むしろ配当が増えてよかった」というひとばかりだった。インターネットの記事で上記のようなことをしり、写真のようなひともいるのだなと降着の感慨を新たにした。



私の場合は大好きなブエナビスタ1着固定3連単だったからゴールと同時にハズレが確定した。JF、チューリップ賞、桜花賞、オークスとそれで当ててきて、札幌記念、秋華賞とハズしたことになる。札幌記念のときは「届かずの2着もあるなあ」と思い「2着固定3連単」をすこし買おうかと迷った。○がサクラオリオン、▲がヤマニンキングリーだったから悔しい馬券になる。購入決断の時、「ここまでずっと1着固定できたんだ。凱旋門賞の壮行レースだ。みっともないことは出来ない!」と目を瞑って1着固定のみにしたことを今も思い出す。


馬券戦績的には勝ち越しになるが収支としてはマイナスだ。人気薄を連れてこいと頭固定で相手を手広く買うので(それこそ50万、100万馬券)、いつも固い決着になり当たってはいるが儲かった記憶がない。なにしろ桜花賞が56倍、オークスが24倍だ。桜花賞はほとんど元取り、オークスはトリガミだった。ちなみに今回もブエナビスタがレッドディザイアを差していたとしてもトリガミ(配当は1番人気の16倍)だった。


ああいう差し馬が後方から一気にやってきて先行した人気馬を差すときは、一緒に上がってきた、いわば勝負を捨てていたような差し馬を一緒に連れてきて、ゴール前がらっと変ってしまう例が多いのだが、ブエナビスタの場合は、前にいた人気馬はしっかり粘っているし、後方から差してきた馬もそこそこ人気馬だし、どうにも馬券が荒れない。これはこれで不思議だ。



降着は被害馬のあとにするのが通例である。もしもあの走路進行でブロードストリートが10着だったらブエナビスタの11着降着はあっただろうか。被害馬ということなら7着のワンカラットもそうなのだが……。


メジロティターンの死・2──幸福な大往生

メジロアサマのために高額で購入した名血の輸入繁殖牝馬シェリルにメジロアサマをつける。そうして誕生したのがメジロティターンだった。生まれる前から競馬ファンが大好きな競馬ロマンをしょっている。そりゃあ注目される。
何度も新聞で紹介されたこの話を当時の競馬ファンはみな知っていた。メジロのロマンだと応援する。かくいう私も典型的なそのひとりだった。なつかしい。
そういうことから注目され人気のある馬だった。未勝利を勝ったのが3月。春のクラシックには間に合わなかった。夏に連勝し、上がり馬としてセントライト記念を勝つ。が、そこでケガ。菊花賞は出られなかった。
半年後に復帰。復帰2戦目で日経賞を勝つ。それなりに活躍していたとも言える。だが「それなり」だ。
本番は天皇賞。北野オーナーはメジロアサマの仔で天皇賞を勝つ夢をティターンに託したのだ。メジロティターンはワンチャンスを見事に活かす。しかもレコード勝ち。ロマンとともに強運も背負っていた。

この天皇賞、1番人気で敗れたのはサンエイソロン。「クラシックトライアル三冠制覇」という珍妙な記録を成し遂げたサンエイソロンは、皐月賞は直前取消し、ダービー、菊花賞は2着とクラシックを戴冠することなく、古馬となっても八大競走は勝てず、この天皇賞12着が最後のレースとなった。ワンチャンスを活かしたメジロティターンが強運なら、こらちは何度も与えられたチャンスをどうしても活かせなかった非運の馬である。
2番人気5着は前年の有馬記念馬アンバーシャダイ。天皇賞はこれで3度目の挑戦。どうしても勝てない。このあと翌年春、4度目の挑戦で悲願を達成する。

メジロティターンはこのあと勝てないまま引退する。よく言われることだが「まるで北野オーナーに天皇賞をプレゼントするためだけに生まれてきたような馬」だった。そして父となってメジロマックイーンを送り出すのだから見事な競馬ロマンである。

 この当時『優駿』には大橋巨泉の対談コーナーがあった。メジロティターンが天皇賞・秋を勝った翌月、ゲストは北野オーナーだった。ここで巨泉は北野オーナーに「メジロという冠を止めて欲しい。こんな意味のない習慣があるのは日本だけだ。欧米ではウンヌン」と噛みつくが北野さんは「自分の馬に自分の愛着のある地であるメジロ名を冠することになんの問題があるのだ」と相手にしない。また「ティターンではなく英語の発音はタイタンだ。メジロタイタンが正しい」とのケチにも、北野オーナーは「スタッフが附けた。わたしは英語のことは知らない」と相手にしなかった。
 それこそ顔を真っ赤にしてしゃべっているのであろう巨泉と、飄々とそれを交す北野さんのやりとりがあまりにおもしろく、十数年後、私は「鼎談・冠馬名を考える」という競馬小説のヒントにさせてもらった。
 が、この当時の私は巨泉の言うように「冠馬名はかっこわるい」と考えていた。そのことは正直に書いておかねばならない。

 父メジロティターンと息子メジロマックイーンの競走成績は比べようもなく息子の方が優秀だ。でももしも人間のように、死ぬときになにか悔いるとしたら、それは息子の方にあったろう。理由は言うまでもない。
 昭和61年に繋養先の本桐牧場でメジロティターンに会った。芦毛馬は白馬になっていた。真っ白になっていたメジロティターンが懐かしい。(あちこちひっくり返せば、この「昭和61年、真っ白な本桐牧場のメジロティターン」の写真があるはずなのだが……。)
 

メジロティターンの死・1──誕生のロマン

 名ステイヤー・メジロマックイーンの父で、自身も82年天皇賞・秋を制したメジロティターン(牡、芦毛、父メジロアサマ、母シェリル、母の父スノッブ)が13日早朝、老衰のため繋養先の北海道洞爺湖町のメジロ牧場で死亡した。31歳だった。

 メジロティターンは78年3月22日に北海道・伊達のメジロ牧場で生まれ、メジロ商事(株)の所有馬として美浦・尾形藤吉厩舎からデビューし、3歳秋のセントライト記念で重賞初制覇。この直前に死去した尾形師に捧げる勝利として話題になった。その後は息子の尾形盛次厩舎に移籍。通算27戦7勝で、重賞制覇は他に82年日経賞もあり計3勝。83年の有馬記念6着が最後のレースとなり、北海道三石町(現ひだか町)の本桐牧場で種牡馬生活に入り、メジロマックイーン(90年菊花賞、91&92年天皇賞・春、93年宝塚記念)を送り出し、父メジロアサマ(70年天皇賞・秋)→自身→マックイーンと史上初の父子3代天皇賞制覇という快挙の立役者になった。00年に種牡馬引退後は洞爺湖町のメジロ牧場で功労馬として余生を過ごしていた。(後略)

(サンスポ2009/10/14)

http://www.sanspo.com/keiba/news/091014/kba0910140505003-n1.htm




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昭和57年の秋の天皇賞馬だ。府中で観戦した。レコード勝ちだった。2着の大井出身のヒカリデュールを1馬身半突き放していた。3着も大井出身のカツアール。カツアールは中央入りした直後、前年宝塚記念を勝っている。ここで2着したヒカリデュールはこのあとのジャパンカップで日本馬最先着の5着となり、そのあと有馬記念を制する。このころの南関東出身馬は強かった。ヒカリデュールの馬主はマルゼンスキーの橋本さん。いろいろ語りたいことはあるが先を急ぐ。



このときメジロティターンは単勝4番人気。4歳時にセントライト記念を勝ち、5歳春に日経賞を勝っているが、その後のここにいたるまでの成績はたいしたことはなく(9.6.5.5着)どちらかと言えば人気先行型の馬だった。トライアルにふたつとも出走し、オールカマーを1番人気で5着、毎日王冠を5番人気で5着である。ふつうなら八大競走を勝てる器ではないと見捨てられるパターンだ。



人気先行の理由はドラマチックな出生がよく知られていたからだろう。メジロの北野オーナーは「ダービーよりも天皇陛下の御名前がついている天皇賞を勝ちたい」というぐらいの天皇賞崇拝派だった。夢を実現してくれたメジロアサマがかわいくてたまらない。勇んで種牡馬にする。だが種牡馬入りしたメジロアサマは精虫の数がすくなくて使い物にならなかった。病気のときに使った抗生物質が原因と言われた。受胎0の年もあった。種牡馬失格である。シンジケートも解散した。



それでもなんとしてもメジロアサマの仔でもう一度天皇賞をと北野オーナーは牧場で引き取り種牡馬生活を続けさせる。メジロアサマの仔は生涯たった19頭しか生まれていない。種牡馬として異様な数字である。サンデーサイレンス的人気種牡馬が一年に200頭も生産したことを考えるといかにすくないことか。とはいえ人として考えたら異なる肌に自分の血を19人も残せるのは夢に近い。私は種牡馬タカハシゲンイチロー号が大嫌いだが3頭の繁殖に4頭の子をなしているのは心底うらやましい。それはともかく。

初年度産駒から快足馬メジロエスパーダが登場する。好きだったなあ快足の芦毛メジロエスパーダ。まさにメジロのロマンである。ネットには何でもあるようで実は何もない。たとえばディープインパクトのことは有象無象山ほどあるがメジロエスパーダはぜんぜんない。だったらおれが書くか。ってそんなもの誰が読むんだ(笑)。

リードホーユーの死──昭和58年有馬記念

83年の有馬記念を勝ったリードホーユー(牡29、父マラケート)が18日午前、余生を過ごしていた北海道野付郡の野付ライディングファームで右後肢球節の骨折を発症し、安楽死の措置が取られた。「年を取っても毛ヅヤが良くて、牝馬を見ていななく元気があったんです。シンザン(の長寿記録=35歳)を抜くつもりでいたので、予期せぬことでした…」と同場の佐藤祥悦(ようえつ)場長は死を惜しんだ。29歳は人間なら90歳を超える長寿だ。(9/20 サンスポ)

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ということで昭和58年の有馬記念のことを書こうと資料を見つつ下記の枠順を作ってみた。自分で表を組み色分けしたのだから労作である。ネットを探してもこんなものはどこにもない。
当時の競馬状況から買い目決定まで長々とこのことを書こうとしたのだが、これは私が50万円という大金(そのほとんどは掻き集めた借金)を賭けた初めてのレースであり、かすりもせずハズレ、中山で死ぬしかないなとへたりこんだレースだった。私は中山のトイレで「お馬で人生アウト」と書いて首を吊っていておかしくなかった。その後も私なりの大金を賭けたレースはいくつかあり、ほとんどハズレているのだが、それはそこそこ金があったときの話であり、たとえばミホノブルボンのダービーも50万円負けているのだが、これなど気楽に話せる、書ける。思えば時代的にもこれがいちばんカツカツの勝負だった。もうとうに傷は癒えていて気軽に書けるかと思ったのだがまだまだそうではないと知った。田原の乗ったリードホーユーの逃げ切りを思い出すだけで震えが来る。とても気楽になど書けない。よって延期。いつの日かこのネタも諧謔を交えて書くことが出来、この枠組が活きることもあるだろう。と思わねば。

枠番  馬番  馬齢  馬名  タイトル  人気  補記
 1  1 牝5 ビクトリアクラウン エ女王杯 8  
2 牡5 ホクトフラッグ 朝日杯3歳ステークス 13  
 2   3 牝6  カミノスミレ 目黒記念、 16 天皇賞・秋2着
 4 牡4 ビンゴカンタ 2 菊花賞2着、ダービー3着
 3   5 牝4 ダイナカール オークス 9  
 6 牡4 テュデナムキング ダービー卿CT 12  
 4   7 牡7 トウショウゴッド ダービー卿CT、目黒記念 14  
 8 牝5 ミスラディカル   5  
 5   9 牡7 アンバーシャダイ 有馬記念、天皇賞・春 1 これが引退レース
 10 牝6 エイティトウショウ 金杯、中山記念 11  
 6   11 牡6 メジロティターン 天皇賞・秋 10  
 12 牡5 ワカテンザン 6 皐月賞2着、ダービー2着
 7   13 牡6 モンテファスト 目黒記念 4 翌年、春の天皇賞勝ち
 14 牡5 ハギノカムイオー 宝塚記念、京都新聞杯、神戸新聞杯 7
 8   15 牡4 リードホーユー  3 京都新聞杯2着、菊花賞4着
 16 牝5 スイートカーソン オールカマー、福島記念 15  

凱旋門賞馬アーバンシーの栄光──シーザスターズ母子制覇

10月4日。ブエナビスタが参戦かと注目を浴びながら「あの札幌記念」の結果から突如不参加となって興味が減衰した凱旋門賞は1番人気のダービー馬シーザスターズ(Sea the Stars)が勝った。これでG1を6連勝。楽勝の完勝だった。



ダービーはイギリスのものなので、愛ダービー、仏ダービー、独ダービー、日ダービーのように書いても英ダービーと「英」はつけないのが競馬ライターの常識。らしい。のでしたがう。
外国馬はカタカナ馬名のあとに英語表記を附けるのもライターとしての礼儀。なのだが私の場合、自分で意味がわからなくなるからの理由。この馬もシーイズトウショウのように「She」と勘違いするのを避けるため。Sheだと牝馬と思ってしまう。牡馬である。Seaは母の名から来ている。



母はアーバンシー(Urban Sea)。1993年の凱旋門賞馬だ。牝馬ながら凱旋門賞を制している上、息子に2001年にダービー、愛ダービー、キングジョージを制したガリレオ(Galileo)がいて、今年この2000ギニー(皐月賞)、ダービーと凱旋門賞を制したシーザスターズがいるのだから名牝である。息子がダービー2勝、母子で凱旋門賞制覇、文句なしの歴史的名牝だ。



シーザスターズの「2000ギニー、ダービー、凱旋門賞制覇」は史上初の偉業だとか。もちろん「同一年度」にである。そうか、三冠馬ニジンスキーは凱旋門賞2着だ。ミルリーフは2000ギニーが2着。ラムタラは2000ギニーに出ていない。シーザスターズの二冠もナシュワン以来20年ぶりだし、いるようでこの三冠はいなかったのか。ナシュワンは凱旋門賞に出る予定だったが前哨戦で負けたので出なかった。けっこう珍しい記録のようだ。

日本的に言うなら「(同一年度の)皐月賞、ダービー、ジャパンカップ制覇」になる。なるほど日本でもいない。唯一挑んだのがルドルフでJC3着。いや唯一じゃないな、ネオユニヴァースも挑んでいる。JC4着。メイショウサムソンもそうか。JC6着。ナリタブライアンとディープインパクトはパスしている。ミホノブルボン、トウカイテイオー、サニーブライアンは故障で出られなかった。
イギリスではもうセントレジャーが無視されているので強い3歳馬の凱旋門賞挑戦はふつうだが、日本では菊花賞が重視されているから、日程上、どうしても3歳時はJCをパスして有馬行きになる。中1週で挑んだルドルフの偉大さが解る。



名繁殖牝馬アーバンシーはすごい馬である。自身も凱旋門賞を勝っている。が、現役時の評価は低かった。

凱旋門賞を勝ったときは13番人気。フロックと思われた。そのあとジャパンカップに出走した。当時は凱旋門賞馬が参戦するというだけで大騒ぎだった。なのに10番人気というひどさ。いかに低く評価されていたことか。結果も8着でありますますフロックと思われた。それまでもその後もG1勝ちはない。凱旋門賞勝ちだけが突出している。当然の評価だった。

この凱旋門賞は2着も17番人気のホワイトマズル(White Muzzle)という大番狂わせ。それでもホワイトマズルには伊ダービー勝ちを含む5連勝やキングジョージ2着があったからアーバンシーよりはだいぶまし。

ホワイトマズルはこのあと吉田照哉さんが購入してジャパンカップに出走する。こちらは勝ち馬アーバンシーとちがって2番人気の支持を受けたが結果は13着の大敗。なんともひどい凱旋門賞1、2着馬だった。

ちなみにこのとき勝ったのはセン馬のレガシーワールド。非凡な馬ではあったけれどそれまでの主な勝ち鞍はセントライト記念だけ。気性難の馬であり去勢して本格化したというのだが結局G1勝ちはこれだけだった。私にとって高見にあるジャパンカップというものが解らなくなった年だ。それは翌年またもセン馬マーベラスクラウンが勝ってよりこんがらがる。去年のスクリーンヒーローは印象としてこのマーベラスクラウンに似ている。



日本人オーナーの馬となったホワイトマズルは翌年キングジョージ、凱旋門賞に武豊騎乗で挑む。2着、6着だった。
日本に来て種牡馬になる。イングランディーレ(天皇賞・春)、スマイルトゥモロー(オークス)、アサクサキングス(菊花賞)の父となっているのだから期待以上の成績か。シャドウゲイト、シンゲンもそう。まあ社台で肌馬に恵まれたとも言えるのだろうが。

人気薄の2頭が1、2着した1993年の凱旋門賞の評価は低く、アーバンシーを「史上最低の凱旋門賞馬」とまで評価した記事もあった。されてもしかたのない成績だった。



1995年にラムタラ(Lammtarra)の勝つ凱旋門賞を観た。帰国してからの酒席で、アーバンシーの凱旋門賞は観ているがラムタラは観られなかった石川ワタルさんが「ラムタラかあ。いいなあ、うらやましいよ、おれなんかアーバンシーだよ」と笑いながら言った。当時はそんな雰囲気だった。高い金を払ってロンシャンまで行って観戦するなら、そりゃあアーバンシーよりもラムタラの方が自慢できる。それがそのころの「常識」だった。

時が過ぎ、アーバンシーの凱旋門賞を観た方が自慢になる流れになってきた。なにしろあのガリレオとシーザスターズの母親が勝った凱旋門賞なのである。一方のその後のラムタラと来たら……。わからんものである。これが競馬。

アーバンシーは今年の3月に亡くなった。もうすこし生きていれば息子による更なるこの栄冠を耳に出来たろうに。でもガリレオの活躍だけでも充分だったか。

1985年の思い出4──競馬曲線のピーク

桜花賞馬エルプスが死んだことを知った。思い出のある馬なのでそのことを書いておこうと思った。1985年は昭和60年。桜花賞はエルプス、オークスは人気薄(たしか今でも単勝最高配当のはず)のノアノハコブネ。その辺の「あっさりした思い出」を書くつもりだった。「1985年の思い出は全部で10ぐらい」と思っていた。

書き始めてすぐ「ミホシンザン二冠、シリウスシンボリダービーの年」と気づく。たいへんなことになった。「ミホシンザンの思い出」で30、「シリウシンボリの思い出」で20ぐらいは書ける。いや書かずにはいられない。サクラユタカオーでも30は行く。そしてそしてこの年は「ルドフル5歳時」である。これだけで50はある。書かねばならない。ミスターシービーもいる。カツラギエース。サクラガイセン。スズカコバン。ギャロップダイナ。切りがない。

1985年は昭和48年(1973年)から競馬を始めた私にとって、あらゆる面で競馬山形曲線のピークの年だった。



【芸スポ萬金譚】に「クイズヘキサゴン2」のことを書いた。1から全面的に模様替えをし、暗中模索で始まったあの番組は大きな成果を上げ今も高視聴率番組だが、山形曲線のピークは、おバカさんタレントの逸材(笑)がまるで水滸伝のように次第次第に集結し、Pabo、羞恥心が結成されて行く流れだ。あの充実ぶりはほんとうにおもしろかった。そのあとの歌のヒットや紅白歌合戦出場はいわば餘禄。そこに到る流れこそが最高だった。

私もそう。ハイセイコーから始まった私の競馬はこのときがピークだった。このあと物書き仕事の一環に競馬が加わり私は競馬ライターになる。牧場、騎手調教師取材等アマでは不可能だった様々な体験をさせてもらった。欧米の競馬を観戦したりした。しかしそれらは「ヘキサゴン」メンバーの紅白歌合戦出場のような餘禄。ことばを変えるなら「もうひとつの競馬人生」。私の競馬ピークは1985年だった。



「1985年の思い出」なんてのを書き始めたら、それは私の「競馬一代記」になってしまう。昭和60年のノアノハコブネのところに「馬主は珍馬名で有名な小田切さん。私が小田切オーナーの馬を初めて知ったのは昭和57年のミスラディカルだった」と書いたように、次から次へと連鎖が始まり切りがなくなる。「1985年の思い出」は100も200も続くだろう。

明日の毎日王冠の予想を書く気もないが、かといってここで延々と思い出話をする気もない。オディールやエルプスのようにリアルタイムで感じた印象的なことを短文でまとめておきたいだけだ。
書き始めてすぐ気づいた。しかしすぐには止められない。当初の予定通り「エルプス──マグニュード──ミホノブルボン」まで書いたのでやっと止められる。反省。

1985年の思い出3──種牡馬マグニテュード

エルプスの父はマグニチュード。その父はあの名馬であり大種牡馬のミルリーフだ。私は桜花賞馬エルプスの父としてマグニチュードという種牡馬の名を覚えた。いや正しくはマグニテュード。私はチュで覚えてしまい、そう書いた原稿を何度か競馬雑誌で直された。とはいえそれはJRA関係のしっかりした編集部だったから。一般にはそのまま載ってしまう。

スペルはMagnitudeだからカタカナはマグニチュードの方が適切だろう。テュードはへんだ。でも競馬用語としてはそういう表記なのだから従わねばならない。この種のことは競馬用語によくある。ライターとしてはむしろ地震関係の記事(そんなものを書くことがあるとも思えないが)にマグニテュードと書いてしまう方が問題になる。

いまネット検索したら、地震の指標値のカタカナ表記はマグニチュードのようだ。
私と同じく種牡馬マグニチュードと書いて競馬ブログをやっているひとも散見した。したしみを感じる。でも競馬的にはまちがいになる。

マグニテュードは1975年生まれ。その後エルプス以外さしたる活躍馬も出ず不遇をかこっていたが、同じ父、同い年のミルジョージが活躍したものだから、代役の目が出てくる。あのころの種牡馬ミルジョージの勢いはすごかった。特に南関東ではまさに旋風だった。あっちもこっちもミルジョージの仔ばかり。

そこから晩年の最高傑作ミホノブルボン(1992年皐月賞、ダービー)が誕生する。人気種牡馬ミルジョージが高くてつけられないのでしかたなく同じ血統のマグニテュードにしたというのは有名な話だ。

漠然と、エルプスとミホノブルボンのあいだにはもっと時間差があるように感じていた。7歳しかちがわないのか。エルプスは父マグニテュードが7歳の時の仔。早かったんだな。ミホノブルボンは14歳のときの仔だから「晩年」ではない。壮年だ。「晩年」は1999年に高松宮記念を制したマサラッキに使うべきか。
エルプスは火山の名前だから父の名ともシンクロしている。

2001年の牝馬二冠馬テイエムオーシャンはエルプスの孫。関西馬だがすなおに応援できた。エルプスの孫でなかったら私はきっとアンチだった。

1985年の思い出2──「内からもういちどエルプス!」

桜花賞トライアルの4歳牝馬特別。関東馬のエルプスが逃げきった。3番人気。2着に8番人気の関西馬ロイヤルコスマー。1番人気で3着に敗れたのは関東馬のタカラスチール。このとき私が応援していたのはトウショウボーイの子のラッキーオカメ。2番人気。ここまで3戦3勝。その他の馬の戦績は傷だらけ。やはり桜花賞馬は無敗の乙女が似合う。応援しつつもどうにもこの名前でクラシックホースになれるのかと疑問に思っていた。案の定なれなかった。

私は血統的にもばりばりの関東人であり一貫して関東贔屓なのだが、なぜかこういう形で関西馬を応援することが当時から多かった。好きな関東馬が嫌いな関西馬にやっつけられると悔しくてたまらないのだが、そこに快感も感じていたようで、どうしようもない西高東低の時代になっても懲りずに競馬を続けているのにはその気質が関係ある。Mらしい。競馬に関しては。

この桜花賞で応援したのは関東馬のミスタテガミ。名前がいい。鞍上は牝馬の嶋田功。関東の秘密兵器だった。

トライアルを勝ったのでエルプスは2番人気と人気上昇した。トライアルをほどよく3着に負けたタカラスチールが本番でも1番人気。ここまではわかるがトライアルで8番人気で2着したロイヤルコスマーは、フロックと思われたのか11番人気とさらに人気を落としていた。

レースはトライアルの再現だった。エルプスが逃げきりロイヤルコスマーが追いこんで2着。私の本命ミスタテガミはロイヤルコスマーにハナ差の3着。3連複3連単のある時代なら1頭軸マルチで取れたのだが。

穴狙いの杉本さんはトライアル2着なのにさらに人気が落ちたロイヤルコスマーを狙っていたのだろう。騎手も大好きな"仕事人"田島良保である。直線、外から差してきたロイヤルコスマーに興奮し、その名を絶叫する。
「ロイヤルコスマー先頭、ロイヤルコスマー先頭!」
それこそあのテンポイントの実況のように「それ行けロイヤルコスマー、鞭など要らぬ!」の乗りである。しかし先頭を走っているのはエルプスだ。ロイヤルコスマーに半馬身差をつけている。それよりロイヤルコスマーがミスタテガミとの2着接戦になっていた。
ゴール前、杉本さんは事実を認めしかたなく言った。
「内からもういちどエルプス!」

エルプスは一度も先頭を譲ることなく逃げきったのだが、杉本さんの実況では一度差されたのに差し返したことになっている。根性の馬だ。それはそれで「エルプス伝説」として楽しい。

1985年の思い出──エルプスの死

エルプスの死を知った日、しばし当時のことを思った。桜花賞のあの日が浮かんでくる。
1985年、昭和60年である。牡馬はミホシンザンが皐月賞と菊花賞の二冠。ダービーはシリウスシンボリ。牝馬は桜花賞がエルプス。オークスは大穴のノアノハコブネ。

ノアノハコブネのオーナーは珍馬名で有名な小田切さん。今でこそ珍馬名が増えたが当時は唯一のひとだった。私が初めて小田切さんの持ち馬で名を覚えたのは昭和57年のエリザベス女王杯2着のミスラディカル。勝ち馬はビクトリアクラウン。このノアノハコブネが小田切オーナー初のG1制覇だった。鞍上は音無秀孝。いまは名調教師である。

と、エルプスのことを書こうとしているのにノアノハコブネから入ったのにはちゃんと理由がある。昭和57年のエリザベス女王杯。私はビクトリアクラウンの大ファンだったからもちろん本命。ミスラディカルという名前をかっこいいと思って応援したからこの馬券は本線で取った。低配当だったが。
そのときそれ以上に印象的だったことがあった。ビクトリアクラウン完勝なのに実況アナがやたら2着のミスラディカルのことばかり叫んでいるのである。杉本さんだ。
「ミスラディカルが追い詰める。ミスラディカル、音無が追う! 音無が追う!」
この連呼される「音無が追う!」は強烈だった。ビクトリアクラウン楽勝だったので杉本さんの熱狂は滑稽にすら思えた。音無騎手が好きだったのだろう。私はこの実況で音無秀孝という騎手の名を覚えた。かっこいいひとなのだろうと思った。写真を見てがっかりした。

ハイセイコーの菊花賞の時から超のつくほどの杉本ファンだったが、あまりの関西びいきにうんざりすることも多々あった。でも餘裕でいられたのは当時は圧倒的な東高西低だったからだ。この1985年もノアノハコブネ以外クラシック五冠の内4つが関東馬である。
そういう時代の桜花賞。関西びいきの杉本アナの、私からすると「歴史的迷実況」が誕生する。(続く)


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桜花賞馬エルプスが死亡
netkeiba.com - 2009/9/16 16:54

 85年桜花賞(GI)を勝ったエルプス(牝27)が15日、北海道新ひだか町のカタオカファームでケガのため死亡した。

 エルプスは、父マグニテュード、母ホクエイリボン(その父イーグル)という血統。現役時代は桜花賞のほか、84年函館3歳S(GIII)、テレビ東京賞3歳牝馬S(GIII)、85年4歳牝馬特別・西(GII)、京王杯オータムH(GIII)を制し、85年度の最優秀4歳牝馬に輝いた。通算成績11戦6勝(重賞5勝)。

 繁殖馬としては8頭の産駒を出し、2番仔のリヴァーガール(父リヴリア)は母としてテイエムオーシャン(阪神3歳牝馬S-GI、桜花賞-GI、秋華賞-GI)を輩出。02年に繁殖を引退して以降は功労馬として余生を送っていた。

スプリンターズステークスの日──オディールの死

秋のG1第一弾スプリンターズステークスの日、フジテレビの競馬中継は変則だった。3時40分になってもまだF1をやっていた。テレビ番組表には3時40分から4時20分とある。すでにもうF1のトップはゴールしているようだが「最大延長4時10分まで」とあるからこのままF1中継が続くのだろう。

▼競馬にはこういうことが多い。グリーンチャンネルという専門局があるからそちらを見ろということなのだろう。無縁の身には辛い。以前は競馬場派だったのでテレビ中継など無関係だったのだが近年はIPAT専門なので地上波頼りだ。マイナーとはいえG1の日にそれはないよなあと愚痴る。

▼3時45分になって中継が始まった。録画で見せられるよりは生中継の方がいい。ローレルゲレイロとビービーガルダンが並んでゴール。長い長い写真判定。やがてローレルゲレイロに決まる。高松宮記念に継いでスプリントG1二冠達成だ。通常の放送時間だと勝ち馬は決定しなかった。当然勝利ジョッキーインタビュウもない。これでよかったのかもしれない。3着に突っこんできた夏馬カノヤザクラも見事だった。

▼もうひとつの変則放送の効果。ふだんは放送されるはずのない阪神11レース、4時10分発走のレースが中継された。激しいゴール前のせめぎあい、1番人気で5着入線したオディールに故障が発生する。ゴールを過ぎるときに見えた脚もとの状態でダメなのはわかった。競馬特有の残酷なシーンだ。そのあと、折れてぶらんぶらんになっている左前が映し出された。それを映したことを責めているのではない。あのあとすぐ薬殺だから、オディールファンに最後の姿を見せてくれた価値ある映像だと感謝している。あそこまでひどいとテントで囲んでその場で薬殺だろう。

▼今回通常放送だったらオディール最後のレース中継はなかった。多くのファンにとってオディールの死はスポーツ紙の文字情報で知る形になっていた。すくなくとも私のような地上波しかない者にはそうである。何度見ても辛いシーンだが、オディールは最後の姿をみんなに見せることが出来た。それは競走馬として幸福な死だったろう。

▼トールポピーの勝つ阪神JFじゃ1番人気だった。2歳11月の勝利から20カ月ぶりに今夏の小倉で勝ち(単勝1.9倍!)連続1番人気に支持された最後のレースもゴールまで見せ場たっぷりだった。こういう形の重症はだいたい競走中止になる。オディールは最後まで走りぬいた。みんなにさよならが言えた華のある最後だった。

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【附記】 勝っていたレース!

ここを読んだ友人がメールをくれた。阪神競馬場で、目の前でレースを見ていたようだ。
そのメールを読んでいたらもういちどレースが見たくなり、JRAのサイトから映像をDownloadして見た。

それであらためて知った。オディールは伸びていた。アクシデントがなければ勝っていたレースだった。勝ったボストンオーを交す勢いだった。
つまづいたことと、そのあと映された脚もとの映像がショックで、私はレースその物の印象が稀薄になっていた。
「最後までよくがんばった」と、1番人気での5着をまるで善戦したかのような書きかたをしてしまった。そうじゃない、オディールは伸びていた。加速していた。あのままなら勝っていた。がんばった彼女に失礼なことを書いた。お詫びして訂正する。

みなさんも時間があったらぜひもういちど見てください。伸びている、あれは突きぬける脚だ。オディールは勝っていたのだ、と記憶したい。(10/5/pm22)





JRAのゴール前写真。

このときオディールはもう脚を折り、走れなくなっている。

不自然な騎手の姿勢からもそれがわかる。
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